そして、平和公園へ
- 故島永幸
- 6月3日
- 読了時間: 2分
野村さんのイベントのあとは、どうしても立ち寄りたい場所がありました。それは、平和記念公園。
実は、この場所を訪れるのははじめてでした。夕暮れのなか、私はまず原爆ドームの前に立ちました。
黒く煤け、破壊されたままのその姿。“遺されたもの”でありながら、“語るもの”として、そこに在り続けている。
その瞬間、十万を超える人の命が失われた・・・。
言葉にならない思いが、胸にじわじわと広がっていきました。

次に向かったのは、慰霊碑。弓なりのアーチの下に石碑が置かれ、遠くには「平和の灯」が見えます。
その前で、外国人観光客がポーズをとって写真を撮る姿、複数の人が慰霊碑越しに「平和の灯」を望遠レンズを付けた一眼でフレーミングしている姿を目にしました。
彼らが何を想い、何を伝えたくて撮っているのか――それは私にはわかりません。
ただ私は、カメラを向けることもできず、スマホを取り出すこともできず、ただ頭を下げ、静かに祈ることしかできませんでした。
ただ、ここで1つだけ納得できないのは慰霊碑に書かれた言葉です。
「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」
日本では、主語がない場合自分のことを指します。広島で核攻撃に遭い亡くなった人々が、どんな過ちをおかしたというのでしょうか?戦時国際法において、非戦闘員の殺傷は犯罪です。過ちをおかしたのは、核攻撃を計画した側ではありませんか・・・。
慰霊碑から来た道を帰る途中、太鼓でリズムを取りながら、「センソウハンタイ」とパレスチナとイスラエルの事を何かアピールしている数人がいました。わたしには、この場所を利用したタダの、自己満足にしか思えませんでした。戦争で亡くなった人を思い、何かを伝えたいのなら、場所を考え、かつ話を聞いて貰うための謙虚な姿勢が必要と思います。
でもここで、立ち止まってよかった
旅の途中で、こうして「祈るための時間」を持てたこと。そして、誰かと**“言葉ではなく、思いでつながる”**時間を持てたこと。
それは、予定にない行動だったからこそ得られた、大切な感覚でした。
人と会うこと、場所に立つこと――やっぱり、直接触れなければ伝わらないものがある。
あの日の夕暮れのドームの黒さと、頭を垂れた自分の影が長くのびた慰霊碑の前の静けさを、私はきっと忘れません。
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