「選ぶ」だけで作品になる—デュシャンの現代美術と日本文化
- 故島永幸
- 8月9日
- 読了時間: 3分
更新日:8月9日
7月28日は、男性用便器にサインをして作品と言った、マルセル・デュシャンの誕生日だったそうです。
ARTnews JAPANの記事を読みながら、あらためて「レディメイド」という概念について考えていました。
デュシャンが1913年から1923年の間に手がけた「レディメイド」とは、日常から拾い集めた大量生産品を、単独で、あるいは組み合わせて作品にしたものです。最初の作品は、自転車のフロントフォークを4本足のスツールに固定し、車輪が自由に回転するようにしたもの。1914年にはパリのデパートで買ってきた金属製のボトルラックを、そのまま作品として提示しました。
面白いのは、デュシャン自身は当初これらを「アート」だと思っていなかったという点です。自転車の車輪は「愉快な気晴らし」であり、暖炉の炎を眺めるのと同じ感覚で楽しんでいたに過ぎませんでした。「レディメイド」という呼称を与えたのは、少し後になってから。既製品に手を加えず、ただ「選ぶ」という行為だけでアートに昇華させる。この発想が、20世紀美術における最も画期的な転換点のひとつとされています。
「アーティストがそうだと考えれば、ありとあらゆるものがアートになり得る」多くのアーティストや美術関係者は、そう考えました。でも、果たしてそうだったのでしょうか?私は、デュシャンがやった行為は「サインさえあれば、何でも作品」とされる風潮に対するアンチテーゼとして訴えかける行為だったのじゃないかと考えます。
しかし皮肉なことに、レディメイドは現代において、アート界に最もインパクトを与えた思考となってしまいました。
私の考えは一旦横に置いて話を元に戻すと、この考え方は、AIが画像や文章を生成する今の時代にこそ、切実な問いとして響いてきます。手を動かして作らなくても、選び、配置し、意味づけるという行為そのものが創作になり得るのなら、AIが生成したものを「選ぶ」私たちの行為もまた、創作の一部なのかもしれません。逆に言えば、道具が何であれ、「何を選び、どう意味づけるか」という部分にこそ、作家性が宿るということでもあります。
写真もまた、突き詰めれば少なからず「レディメイド」的な行為と考えられなくはありませんか。目の前に広がる現実そのものには手を加えず、シャッターを切る瞬間、切り取る範囲、選ぶタイミング——その「選択」こそが写真家の仕事だからです。
さて、そのレディメイドですが。日本ではるか昔からやってきました。 和歌の世界では本歌取り 茶の湯の世界では見立てと言いました。
世界のアートは近代になり、やっと日本に追いついた訳です。w
当の日本人はそれを知る由もありませんが。




コメント