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学歴?師匠?クリエイターにとって大切なもの。アートの本質について。



SNSで議論が湧き上がっていました。

美大を出たか、出ていないか。


そんな議論がSNSで盛り上がっていました。出た人の意見も、出ていない人の意見も、読んでいてどちらも理解できるものでした。それぞれの立場から見えている景色が違うのだから、当然といえば当然です。


私はといえば、みなさんご存じの通り、美大は出ていません。写真学校も出ていません。師匠もいません。でも、国際コンペで審査員もするし、BIPPのダブル・フェローです。大阪芸大では作家論の授業をさせて頂いた事もあります。(その説は織作先生、ありがとうございました)




それを「武器」だと思ったことは、一度もない。

セミナーや講演の場で、そのことをお話しすることがあります。ただ、正直に言えば、学校を出ていないこと、師匠がいないことを「武器」だと思ったことは、一度もありません。むしろ「行きたかったなー」と思います。


では、なぜ話すのか。


それは、受講してくださる方を励ましたいからです。学校を出ていなくても、師匠がいなくても、本気で取り組めば世界の舞台に立てる——その事実を、自分の経験を通じてお伝えしたい。ただそれだけです。




学校で得られるものと、得られないもの。

美大や芸術系の学校を出ていれば、確かに多くの知識が得られます。美術史、構図の理論、色彩学、表現の文脈——作品を作る上で、それらの知識は間違いなく有利に働くと思います。


ただ、知識があれば良い作品が作れるかというと、それはまったく別の話です。


広い知識を持っていても、表現が伴わなければ評価は得られません。逆に言えば、体系的な教育を受けていなくても、表現そのものに力があれば人の心を動かすことはできます。私自身が、そのひとつの例だと思っています。(とは言え、最低限の勉強は本を買って学びました。知識は持っておかないと、文化や伝統といったものに対する誤った発信をしかねません。




評価が高ければ、売れるのか。

もうひとつ、よく混同されることがあります。


コンペやアワードで高い評価を得ることと、作品が売れることは、必ずしも一致しません。 また逆もしかり。お客様に喜んで頂けたからと、コンペで高い評価が得られるとは限りません。


審査員が評価する視点と、作品を購入する方が感じる感情は、重なる部分がありますが同じではありません。購入してくださる方の心が動かなければ、どれだけ受賞歴があっても買っていただくことはできません。「評価される作品」と「愛される作品」は、似ているようで、違うのです。




苦労した量は、作品の価値に関係ない。

そしてこれが、最も本質的な話だと思っています。


何をどんな目的で作るか。それが問われます。


しかし、その作品を作るためにどれだけ苦労したか、どれだけ時間をかけたか、どれほど努力を積み重ねたか——それは、作品の評価とは関係がありません。


これは冷たい話のように聞こえるかもしれませんが、アートの世界では当たり前のことです。


その証拠に——多くのアーティストが最も衝撃を受けた作品として挙げるのが、マルセル・デュシャンの「泉」です。1917年の作品です。


それは、男性用の便器でした。w


市販の便器をそのまま展示会に出品し、「R.MUTT」というサインだけを入れた。制作時間はゼロに等しい。苦労もほぼない。それでも20世紀美術に最も大きな衝撃を与えた作品のひとつとして、いまも語り継がれています。


問われているのは、「何をどれだけ苦労して作ったか」ではなく、「見る者の意識をどこへ連れていくか」なのだと、デュシャンはたった一個の便器で証明してみせました。(デュシャンはタイトルさえ付ければ何でも作品となる風潮へのアンチテーゼとして、誰も好まないであろう便器に「泉」というタイトルを付け展覧会に出品したのではないか?と個人的には思うのですが・・・)




では、何が大切なのか。

学歴でも、師匠の有無でも、制作にかけた時間でも、苦労の量でもない。


「何を、誰に向けて、何のために作るか」——突き詰めると、そこに尽きるのではないでしょうか。


美大を出ていても出ていなくても、この問いから逃げることはできません。逆に言えば、この問いと真剣に向き合い続ける限り、学歴や経歴は関係ないと言えます。


デュシャンの便器が、いまも私たちに問い続けていることは、そういうことだと思います。



デュシャンの便器
デュシャンは自身が役員を務める展覧会に、偽名を使って出品します。費用さえ支払えば誰でも出品できるにもかかわらず、本作は役員達により撤去されてしまいました。


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