写真の定義
- 故島永幸
- 7月8日
- 読了時間: 2分
SNSを眺めていると、写真に関する話題がよく流れてきます。
先日目にしたのは、写真の「合成」に関するものでした。
きっかけは、有名な景勝地を撮影・合成した写真を投稿し、それがまるで合成ではないかのような説明が添えられていたことでした。それに対し「紛らわしい」といった批判や、タグ付けされた団体を非難するコメントが殺到し、最終的には投稿者による謝罪文の掲載にまで発展していました。
コメント欄には、こんな意見が並んでいました。
写真は撮ったままであるべきで、レタッチすら許さない
レタッチはいいが、合成は絶対にダメ
アートなんだから別にいいじゃん
あそこ(団体)はそういうところだ
いまや、合成はもちろん、撮影すらしなくてもAIが希望の画像を生成できる時代です。そんな背景もあり、写真に真剣に取り組んでいる人(特にアマチュアの方)が敏感に反応する気持ちはよくわかります。
ただ、これを一緒くたに議論してしまうと話は平行線をたどり、永遠に妥協点は見つかりません。

写真とは何か?
1839年にカメラを発明したフランス人、ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールは、きれいな絵を描くための機械を作ろうとしていました。ほぼ同時期にイギリスのヘンリー・フォックス・タルボットも、同じ動機でカメラを開発しています。
だからこそ英語では、絵画も写真も「picture」という同じ単語で表されるのです。そこに明確な境界線はありません。

ところが日本語では「写真」という言葉で「真実を写す」と解釈されるようになりました。ここに、欧米と日本の文化的な大き
な違いが生まれたわけです。
ちなみに「photograph」という言葉はギリシャ語で「光画」を意味し、こちらも「絵」を指す言葉です。
ただし、フィルムで写真を撮っていた時代には「記録」という点で他のメディアにはない特性がありました。そのため、証拠能力を持ち、警察やジャーナリズムなどの分野で地位を確立していったのです。
結論を言えば、写真はアートでもあり、記録でもあります。だから、アートなら何をしても自由ですし、記録なら撮ったままが望ましいに決まっています。
だから不毛な争いはやめましょう。ただし、紛らわしい言葉で「ないものをあるかのように」表現してしまうと、探して訪れた人が怒るのも当然です。そこは気をつけたいですね。
言い争いに使うエネルギーを、アートとジャーナリズムの両面で写真がより高い地位を獲得できるように使ってもらえたら、私はとても嬉しいです。
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