AIは写真を殺すのか?——「フォトグラファー不要論」の先に待つ、業界の真の姿
- 故島永幸

- 1月19日
- 読了時間: 4分
昨今の生成AIの進化には目を見張るものがあります。呪文(プロンプト)一つで、現実と見紛うような美しい画像が生成される時代。そんな中、ついに恐れていた言葉が聞こえてくるようになりました。
「もう、フォトグラファーなんて必要ないんじゃない?」
そんな声がSNSで散見しているのです。
業界を震撼させた「失言」と「撤回」
先日、あるプロ仕様の画像処理ソフトメーカーが、AIによる新機能を発表した際に放った言葉は、その立場からも衝撃的でした。
「これからは、フォトグラファーはもう不要です」
撮影というプロセスを飛ばし、デスクの上で完璧な画像を作り出せる。作り手側はその利便性を誇ったつもりだったのでしょう。しかし、これまでそのツールを利用してきた世界中のフォトグラファーから、猛烈な反発が巻き起こりました。
結果、メーカーはその日のうちに発表を撤回し、謝罪に追い込まれる事態となりました。道具を作る側が、その道具を使う「表現者」の存在を否定してしまった——。この事件は、テック企業とクリエイターの間に横たわる深い溝を浮き彫りにしました。
果たして、フォトグラファーという仕事は、このままAIに飲み込まれて消えてしまうのでしょうか?
デュシャンの「便器」が教えてくれる、人間の価値
ここで、美術史における革命的な出来事を振り返ってみましょう。 かつてマルセル・デュシャンは、市販の男性用便器に『泉』というタイトルを付け、作品として出展しました。
当初、それは「ただの既製品ではないか」と激しく否定されましたが、後に「レディメイド(既製品)」という新たな芸術価値を確立したとして称賛を浴びることになります。
しかし、ここで重要なのは、「便器をアートだと定義したのは人間である」という点です。 人間から学習することしかできないAIには、既存の価値観を壊し、無機質な物体に新たな意味や哲学を宿らせることは不可能です。AIは「過去」の集積をなぞることはできても、「未来」の価値をゼロから創り出すことはできないのです。
AIに決して真似できない「三つの領域」
AIがどれほど高精細な画像を生成できても、現場でフォトグラファーが提供している以下の価値には到達できません。
被写体の感情をコントロールすること レンズを向けられた人間の緊張を解き、最高の表情を引き出す。あるいは、その場の空気を作り上げ、モデルの奥底にある感情を揺さぶる。この「人間同士の心のやり取り」こそが、写真に血を通わせるのです。
撮影体験という価値 写真は「結果」としての画像だけがすべてではありません。「あの時、あの場所で、この人に撮ってもらった」という体験そのものが、クライアントにとっての無二の価値になります。
被写体が子供であった場合、衣装や撮影を親は一生懸命に考えます。後に子供が成長したとき、生成AIのデータから親からの愛情を感じられるでしょうか?私はそうは思えません。
皮肉にも、AIが業界を「本来の姿」へ戻す
もちろん、厳しい現実もあります。 単にシャッターを押すだけ、あるいは基本的なレタッチだけで「技術や知識が足りない」フォトグラファーや、安価を売りにしているフォトグラファーは、コストとスピードで勝るAIに勝つことはできないでしょう。
しかし、私はこう考えています。 「皮肉にもAIによって、写真業界は本来の姿に戻るのだ」と。
便利になりすぎたことで、誰でも「それっぽい写真」が撮れる(生成できる)ようになった現代。しかしこれからは、AIには到達できない高度なスキル、独自の哲学、そして人間力を持った「真のプロフェッショナル」だけが選ばれる時代になるのではないか。
模倣者たちがもてはやされる時代は終わります。AIという巨大な波が、結果として写真の「本質」を際立たせてくれる——。私はそう確信しています。
そして何より、当のお客様(クライアント)は、今はAIの物珍しさに興味を持っていますが、やがて本物の何かを欲しがるに違いありません。五感が感じる何か。触れ、感じ、そして受け継がれるものを。












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