フォトコンテストの「真の価値」とは。メーカーとの対談から。
- 故島永幸

- 5 日前
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先日、某メーカーのコンテスト担当者が訪ねて来られました。目的は、彼らが主催する「コンペ(コンテスト)の在り方」について意見を聞かせて欲しいとのことでした。 400を越える海外での受賞数を、買ってくださったと言ったところでしょうか?
私は、日本のフォトコンテストと海外のコンペティションにおける「審査の仕方」や「内容」の決定的な違いについて、忌憚のない意見をお伝えしました。
審査員の「透明性」と「責任」の欠如
まず議論になったのは、「審査員が国際的に認められたフォトグラファーであるかどうか」という点です。
日本のコンテストでよく目にするのが、審査員が不明確であったり、選定基準が曖昧だったりするケースです。この最大の問題点は、「審査結果に対して誰も責任を負っていない」ことにあります。
国際的な基準: 審査員は自身のキャリアを賭けて審査を行います。結果次第ではコンペの名誉を傷つけるだけでなく、自身の評価をも失うリスクを背負っています。
応募者への影響: 納得感のない審査が続けば、多くの人に共感を得られず、結果として応募者の減少という衰退を招きます。
私が15年以上審査員を続けているローカル・コンテストでも、当初は入賞作の選定に多大な苦労がありました。しかし、「多くの人が納得できる審査」を心がけ、その結果を明確な言葉で言語化し、広報し続けてきました。その甲斐あって、今では「落選させるのが惜しい」と思えるほどレベルの高い作品が集まるコンテストへと成長しています。
「主観的な好み」から「客観的な美術史のセオリー」へ
日本の写真業界には、根深い課題があります。それが「客観的審査(美術史に則ったセオリー)」vs「主観的審査(日本独特の審査員の好み)」の構図です。
世界のアートシーンにおける評価基準は、現在もルネサンス以降の西洋美術史が主流です。 例えば、現代美術家の村上隆氏。日本国内よりも海外で圧倒的に高く評価されているのは、彼が西洋美術の構造を徹底的に理解した上で、日本美術のエッセンスを融合させているからに他なりません。
もちろん、セオリーさえ守っておけば評価される様な、優しいものではありません。それらを踏襲した上で、衝撃を与えたり、価値観を変えるようなものが必要となります。
日本の義務教育では、こうした美術体系を学ぶ機会が少ないことが、写真表現にも大きな影を落としていると感じます。教育制度をすぐに変えることは困難ですが、だからこそ我々フォトグラファー自身が美術の教養を深める必要があるのです。
コンテストは「賞賛」の場ではなく「学び」の場であるべき
メーカーの方が持参された過去の受賞作についても、客観的な視点から「評価できる点・できない点」を率直にお伝えしました。担当者も、これまで抱いていた「審査結果への違和感」の正体が整理され、腑に落ちたようでした。 私は最後に、このような言葉を贈りました。
「コンテストはフォトグラファーにとって、賞賛を得るためのものではなく、学びを得るためのものであるべきだ」
厳しい言い方をすれば、海外と比較して日本の営業写真は「周回遅れ」と言わざるを得ない状態です。それは、甘やかされたコンテストによる「安易な賞賛」が招いた結果とも言えるのではないでしょうか。
日本発、世界基準のコンペティションへの期待
どこかのカメラメーカーが、日本初・世界初の「営業写真業界向け国際コンペ」を自国で開催してくれないだろうかと切にそう願っています。
海外のフォトグラファーと同じ土俵で競い合って初めて、日本の写真の実力と、本当の意味での「良さ」を再認識できるはずです。












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