日本の写真業界の発展に、必要なもの不要なもの。
- 故島永幸
- 15 時間前
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更新日:13 時間前
前回の記事に、大きな反響をいただきました。
「モニター募集」の問題について書いた前回のブログに、たくさんのご意見をいただきました。ありがとうございます。
では、日本の写真業界はどうすればよくなるのか。今回はそこを考えてみたいと思います。
海外のイベントで見た、圧倒的な差。
海外の写真業界イベントに参加するたびに、感動させられることがあります。
各ブースに展示された写真の、圧倒的なパワーです。カメラメーカーはもちろん、アルバムメーカーやプリンターメーカーのブースでも同様です。「このフォトグラファーに撮ってもらいたい」——そう思わせる写真が、いたるところにゴロゴロしています。
ふりかえって、日本はどうでしょうか。
残念ながら、国内のイベントでそう感じさせてくれる写真に出会ったことは、ほとんどありません。
この差は、一般消費者が写真に対して感じる価値を、大きく左右します。日本で写真の価値が上がらないのは、消費者にその価値を納得させられるだけの仕事ができていないことに、他ならないのではないでしょうか。
海外では「この写真なら高い対価を払うのは当然だ」という感覚が根付いています。つまり、一般消費者の目が肥えている。それに対し日本では、撮影する側が消費者受けするものを撮って、いわば後ろをついていく。プロなら、消費者の少なくとも半歩先を歩いてほしいものです。それができなければ、消費者の目を肥やすことなどできるはずがありません。
こういった状況では、フォトグラファーの社会的地位も、作品の価値も、ギャラも、上がるはずがないのです。
登壇者を見ても、同じことが言える。
イベントの登壇講師を見ても、同じ構図が透けて見えます。
海外ではマスターレベル以上の人が登壇し、圧倒的なビジュアルを背景に撮影やレタッチについて語ります。マスター称号を持たない登壇者であっても、コンペで複数のジャッジから「革新的表現者」として認められ、賞賛を受けてきた人たちです。
日本ではどうでしょうか。マスターの称号を持つフォトグラファーは数えるほどしかいないにもかかわらず、その人たちが登壇する機会はほとんどありません。コンペはおろか、作品すら発表しない人たちが「大人の事情」としか解釈できない理由で重用されます。
これでは、写真界全体のレベルの底上げを期待するのは無理というものです。プロがプロから学び成長する構造が不在しているのですから。
私はこの現象を、ひとつの言葉で表したいと思います。
「村社会的お手盛り権威主義」
仲間内で評価し合い、外部の目線も、実力の検証もないまま権威を与え合う。そしてその権威が、また次の権威を呼ぶ。この閉じたループが、業界全体の停滞を生み出しています。
負のスパイラルから抜け出すために。
では、何が必要なのでしょうか。
私は、フォトグラファーが「表現者である」という原点に立ち返るしかないと思っています。
それはまさに、今年3月に惜しくもお亡くなりになった福家嘉孝先生が、生涯をかけて実践なさってきたことです。先生は、アートの世界で評価されるには、当然必要なもの。西洋美術の系譜に則っり、セオリーをまもった絵作りをされていました。その基本が増幅装置となって写真に力を持たせていました。それは「表現者」として写真と向き合い続けた人間だけが持てるものだと、今改めて感じています。
そしてメーカーへの提言です。木を見て森を見ずと言いますが、目先の販売数字だけでなく、長期的な視点で写真文化をどう育てるか、どう未来へ残すかを真剣に考えてほしいと思っています。それが、業界とともに、メーカーも一緒に発展する健全な姿ではないでしょうか?
いろいろと書いて参りましたが、これらは、決して批判をしたいわけでは有りません。激励として受け取って頂けると幸いです。これにて、この手の投稿は終わりにしたいと思います。しばらくは・・・w
……と、また隣の犬がぼやいていました。w



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