ポール・スミスの色彩センスとピカソの本質——「遊び心の冒険へ」展レポート
- 故島永幸

- 2 日前
- 読了時間: 4分
ピカソは「好みじゃない」——それでも見に行った理由|国立新美術館「ピカソ meets ポール・スミス」
Adobe本社でのセミナーを終えた翌日、友人の髙村さんと美術展のはしごをしました。上京すると必ずと言って良いほど美術館をまわります。最初に向かったのは六本木の国立新美術館。現在開催中の企画展「ピカソ meets ポール・スミス 遊び心の冒険へ」です。
正直に言います。ピカソは、好みではありません。
ポール・スミスが会場をデザインする、という試み
では、なぜ行ったのか。
この展覧会のユニークな点は、ピカソ作品そのものよりも、ポール・スミスが展示空間のレイアウト全体をデザインしているという点にあります。パリ国立ピカソ美術館が所蔵する作品群を、英国人ファッションデザイナーのポール・スミスが独自のセンスで「編集」し、空間として再構成する——そのコラボレーションがどんな化学反応を起こすのか、それが見たかったのです。
ポール・スミスといえば、「ひねりのあるクラシック」を哲学に持つデザイナー。鮮やかな色彩の組み合わせと、ユーモアと品格が同居するスタイルで知られています。
実際に会場を歩いてみて感じたのは、ポール・スミスはカラーパレットの選択が本当にうまいということです。ピカソの「青の時代」「バラ色の時代」それぞれの色調に寄り添いながら、しかしそれに飲み込まれない。展示空間の色が、作品を殺さず、むしろ引き立てていました。キュレーションというよりも、もはや「もう一人の表現者」として間違い無く空間に参加していました。ファッションデザイナーのフィルターを通して見るピカソは、確かに少しだけ違って見えました。
ピカソへの、正直な問い
とはいえ、ピカソの作品と対峙すると、やはりあの疑問がよぎります。
ピカソは、天才的にデッサンが上手かった。幼少期から驚異的な写実の技術を持ち、若い頃の古典主義的な作品を見れば、その完成度は疑いようがありません。今回の展示でも「古典主義の画家」のセクションに並ぶ肖像画、妻オルガや息子パウロを描いた作品は、非常に丁寧で端正です。
それなのに、なぜあの作風になったのか。
キュビスム、コラージュ、アッサンブラージュ。正面からも横からも同時に見えるような、現実の文法を意図的に壊した表現。好みかどうかは別として、あれはピカソが対象の本質を捉えようとした結果だと、今回あらためて腑に落ちました。目で見えるものを再現するのではなく、「その対象とは何か」を絵に込めようとしたとき、写実では追いつかない何かがある・・・そういうことなのだと思います。
「上手いまま描いていたら?」という、表現者としての問い
ただ、同じ表現者として、ここで考えずにはいられない事が目の前に横たわります。
もしピカソが、あの圧倒的なデッサン力のまま、端正な写実の絵を描き続けていたとしたら・・・はたして彼はあれほどの名声を手にできたでしょうか。
おそらく、答えはノーだと思います。
「上手い絵」は世の中に掃いて捨てるほどあります。美しい写実の画家も、技術的に完璧な作品も、歴史の中にはいくらでも存在します。しかし「ピカソ」という名前が20世紀の美術を象徴するものになったのは、彼が常識を壊し続けたからです。見る者を不快にさせながら、それでも目が離せない。説明できないのに、記憶に残る。その「引っかかり」こそが、彼の本当の力だったのではないでしょうか。
写真の世界でも、似たことは起きます。技術的に完璧な写真よりも、何か一つ「異物」が混じった写真の方が、記憶に残ることがあります。整いすぎた美しさは、時として人の心をするりと通り過ぎてしまいます。
ピカソは好みではありません。でも、彼がなぜあの道を選んだのか。そしてその選択が何を生んだのかを考えながら見ていると、展覧会を出た後も、しばらく頭から離れませんでした。
それが、表現というものの力なのかもしれません。
「ピカソ meets ポール・スミス 遊び心の冒険へ」 会期:2026年6月10日(水)〜9月21日(月・祝) 会場:国立新美術館 企画展示室2E(東京・六本木) 公式サイト:https://www.nact.jp/exhibition_special/2026/picasso_paulsmith/

















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