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巨匠は本当に一人で描いていたのか? ― 工房とAI時代の写真家

13 時間前
読了時間: 7分


「この絵は、誰が描いたのだろう?」

美術館で名画を前にして、ふとそんな疑問を持つことがあります。

レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、レンブラント。私たちは彼らを「一人の天才画家」として記憶しています。しかし当時の制作現場は、その姿とはかなり違っていました。




巨匠には「工房」があった

ルネサンスからバロックの時代、画家たちは工房を構え、弟子や助手とともに制作していました。ダ・ヴィンチ自身も、若い頃はヴェロッキオの工房で助手として腕を磨いたと伝えられています。


レンブラントの工房では、弟子や助手が巨匠の構図をもとに下描きをし、衣服や背景など特定の部分を描き、場合によっては作品のかなりの範囲を手がけたと考えられています。そして最後に、巨匠自身が筆を入れ、署名する。

それでも、その絵は「レンブラントの作品」でした。何を描くのか、どう見せるのか、どこまで仕上げるのか。作品の核心を決めていたのが、レンブラントだからです。


手を動かした人と、作品を生み出した人は、必ずしも同じではない。

フェルメールも、長く「弟子を持たず、一人で描いた画家」と思われてきました。ところがワシントンのナショナル・ギャラリー・オブ・アートは、《フルートを持つ少女》の調査から、フェルメールの工房の存在を示唆する結果を発表しています。「完全に一人で描いた巨匠」を歴史の中で断定するのは、案外難しいのです。




私自身も「工房の一員」だった

ここで、私自身の仕事にも触れておきます。

私はこれまで、レタッチャーとして、そしてプリンターとして、多くのフォトグラファーの作品づくりを支えてきました。その多くの作品が、受賞してきました。


撮影は、フォトグラファー自身が行います。私は、受け取った写真が最終的にどんな姿になるべきかを考えながら、色を整え、階調を整え、肌の質感を見極め、残すものと整理するものを選びます。そして最後に、モニターの中ではなく、実際の「プリント」という作品に仕上げる。


これは、かつての画家の工房に近い関係かもしれません。もちろん、絵画の工房と現代の写真制作を同じだとは言いません。それでも、一つの作品のために複数の人間の技術と判断が関わる、という点はよく似ています。


そして受賞したのは、撮影者の作品としてです。「何を撮るのか」「何を伝えたいのか」を決めたのは、撮影者だからです。私の技術は、その意思を形にするためにありました。




手を動かさなかった芸術家たち

ここから、「作者とは手を動かす人なのか」という問いを、極端な例で考えてみます。

マルセル・デュシャンは1917年、既製品の男性用小便器に署名をして、《泉》として展覧会に持ち込みました。彼は何も作っていません。選び、名前を付け、美術の場に置いただけです。それでも「作品とは何か」という問いを、美術の世界に突きつけました。当時、この作品を擁護した文章には、「作ったかどうかは重要ではない。彼が選んだのだ」という趣旨のことが書かれています。


現代に目を向けると、村上隆さんは、多くのスタッフとともに制作する体制(カイカイキキ)で作品を生み出しています。その姿は、ルネサンスの工房やウォーホルのファクトリーになぞらえて語られることもあります。構想し、方向を決め、最終的な判断をするのは村上さんです。工房は500年前の話ではなく、いまも生きている制作のかたちなのです。


そして杉本博司さん。写真家として世界的に知られる杉本さんは、数理模型そのものの「写し」を、現代の切削機械で彫刻として製作しています。そこに、道具を握る手はありません。あるのは、何を、どんなかたちで残すかというアイデアと、それを実現する精密な機械とオペレーターです。それでも、その作品を作ったのは誰かと問われれば、答えは杉本さんです。


三人に共通するのは、作品の中心にあるのが「手の技術」ではなく「意思と判断」だということです。

とはいえ、手仕事に価値がないと言いたいのではありません。技術は、意思を作品にするために欠かせません。ただ、作者性の中心は技術そのものではなく、それを使って何を決めたかにあります。




AIという、新しい助手

いま私たちは、AIで画像を生成し、写真を修正し、複数の案を出させることができます。肌を整える、背景を整理する、不要なものを消す。こうした作業をAIに任せられるようになりました。


これは新しいようで、美術史から見ると、それほど突飛なことではないのかもしれません。かつての巨匠に弟子や助手がいたように、いまはAIが助手になるのです。

ただし、AIは弟子とは違います。弟子は学び、失敗し、いつか自分の表現を持つ存在でした。AIには、人生経験も、「こんな作品を作りたい」という欲求もありません。だから私は、AIを「新しい画家」というより、極めて高度な助手と考えるほうが正しいと思っています。



それでも、自分の手でやりたくなるとき

ここまで「作者の中心は、決めること」と書いてきました。最後に、少し矛盾するような話もしておきたいと思います。

私は、マグリットの世界を写真で表現した作品を制作しました。この作品には、レタッチも、現像作業も、一切していません。撮影したままの状態です。当然、AIも介在していません。


レタッチとプリントで、多くのフォトグラファーの作品を支えてきた私です。その気になれば、どこまででも手を加えられます。その私が、あえて何もしない。

なぜ、そんなことをしたくなったのか。自分でもはっきりとは分かりません。ただ、撮影の段階で、できる限りのことをやっておきたい、という気持ちがありました。あとから直せる余地を、自分で消しておく。


これは、「作家」としての表現というより、「職人」としての誇りに近いのかもしれません。あるいは、その二つは、もともと分けられないものなのかもしれません。

ただ、一つ言えるのは、これもまた「決める」ことだということです。何でもできる時代に、あえて何をしないかを選ぶ。手を動かさない自由があるように、手を動かすことを選ぶ自由もあります。

デュシャンは、「選ぶこと」を作品にしました。私は、選び方の一つとして、「すべてを撮影の一瞬に込める」ことを選んだのです。

AIの時代になっても、この選択の自由は変わりません。




「AIに作らせる」のではなく、「AIを使って作る」

ここには、大きな違いがあります。

AIに作らせて結果を受け取るだけなら、そこに自分の意思がどれだけあるのかが問われます。デュシャンの《泉》も「選んだだけ」ですが、そこには「なぜそれを、いま、こう見せるのか」という明確な問いと文脈がありました。選ぶことが作品になるのは、その背後に意図があるからです。


一方、自分の明確なイメージがあり、AIを道具としてそれを実現するのであれば、筆、カメラ、Photoshop、レタッチャーやプリンターへの依頼と同じ、道具や協力者の進化の延長線上にあります。


AIにレタッチをさせたとしても、「AIがこうしたから、これで完成」ではありません。結果を見て「違う」と思えばやり直す。「ここは残したい」「この肌の質感は消したくない」と判断する。そして最後に、「これが自分の写真だ」と言えるところまで持っていく。これは、かつての巨匠が助手の仕事を見て、必要なところに自分の手を入れていた姿と、よく似ています。


技術が簡単になるほど、難しくなるものがあります。それは「何を作るのか」です。誰でも綺麗な写真が撮れ、誰でも高度なレタッチができ、誰でも素晴らしい画像を生成できるようになったとき、差になるのは技術ではありません。




最後に残るもの

工房があった時代も、手を動かさない芸術家が現れた時代も、機械が作る時代も、そして今も。作品の中心にいたのは、いつも「決める人」でした。

カメラが何を撮ったかではない。AIが何を作ったかでもない。レタッチャーやプリンターの技術だけでもない。


あなたは、何を表現したかったのか。

それこそが、写真をアートにする最後の一線なのだと、私は思います。





マグリットへのオマージュ作品
俗に言う「撮りっぱ」。AIやPhotoshopが高度化する中、一切の現像やレタッチを排除したRAWデータで完結したマグリットへのオマージュ作品「Another "Son of Man"」

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